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仙台高等裁判所 昭和51年(ネ)263号 判決

控訴人 阿部評博 ほか一名

控訴人ら補助参加人 瀧原秀昭

被控訴人 国

代理人 伊藤俊郎 延沢恒夫 舟越俊雄 ほか四名

主文

本件控訴をいずれも棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とし、当審における補助参加の費用は補助参加人の負担とする。

事  実〈省略〉

理由

一  当裁判所の認定及び判断は、次項以下のとおり附加、訂正し、当審における補足主張に対する判断を附加するほかは、原判決の理由説示と同じであるから、ここにその記載を引用する。

当審において新たに取り調べた証拠を加えて検討しても、右引用にかかる原判決の認定及び判断(後記附加、訂正を含む。)を変更するに至らない。

二  原判決の理由説示についての附加、訂正部分

1  原判決四四頁二行目の「<証拠略>」の次に「<証拠略>」を、同「<証拠略>」の次に「<証拠略>」を附加する。

2  同四五頁八行目から九行目にかけて「境界査定」とあるのを「境界踏査」(以下、この境界踏査を査定又は境界査定と表示する。)」と訂正し、同一二行目の「八筆の所有者)」の次に「及び村総代人大場喜内外一名」を附加する。

3  同四六頁一一行目の「地籍図」とあるのを「地押図(査定願書((<証拠略>))の添附書類の欄には地籍図と記載されているが、その実際は地押図である((<証拠略>)))」と訂正する。

4  同四七頁二行目の「測量をなした結果、」の次に「その成果にもとづき右査定出願の対象土地が」を附加し、同二行目の「右査定地は」とあるのを「すでに」と訂正し、同「結論を出し、」の次に「大正一三年末ないし大正一四年初には」を附加し、同八行目「官有地の範囲は、」の次に「右内田源平の測量成果及び」を附加し、同一一行目から一二行目にかけて「第一係争地にかかるそれ」とあるのを「『第一係争地の測量成果表』のとおり」と訂正し、同一二行目の「角度」の次に「、屈曲の状況」を附加し、同一三行目の「(<証拠略>)」の次に「及び右内田源平の測量成果」を附加し、同一四行目の「くい違い」とあるのを「形状の相違や精粗の差異」と訂正し、同「その差異は」とあるのを「右各測量の成果及びその測量にもとづいて作成された図面のほか、<証拠略>」と訂正する。

5  同四八頁一行目の「全趣旨によると、」の次に「これらの測量おいては、測量の対象とした官有地とその西側に接する民有地との境界を田代川(旧呼称がうるか渕川とも称せられていたことは後述のとおりである。)の東側岸際としていることに変りがなく、また南側境界はその形状が酷似しており、結局、右測量の成果や図面における若干の形状の相違や精粗の差異は」を加入する。

6  同五二頁二行目から、五三頁末行までの記載を次のとおり改める。「しかしながら、(イ)明治一五年作成の鬼首村地籍図(<証拠略>はその写)によると、花山村境界ぞいの里道の西側山林は『八十一ノ五ノ内官薪山』と記載され、そして同年作成の同村合地籍地引帳(<証拠略>はその謄本)によると、下蟹沢八十一ノ五は官有の薪炭山三七八町八反歩と記載されており、また(ロ)明治九年三月官林調査仮条例にもとづき明治一一年に作成された官林図(<証拠略>、その作成時期については<証拠略>)及び官林表(<証拠略>)によれば、桂清水山、ウル川渕山一等官林反別三六八町歩(このうちウル川渕山一等官林は、<証拠略>によると、後に烏留川渕国有林、第六〇林班、第一六〇林班と順次呼称が改変されて現在に至つている。)の境界は、東が花山村字竪輪山外二ヶ銘官林及秣場、西が本村民林及び秣場等と記載されており、この隣接関係は、花山村字竪輪山外二ヶ銘官林の官林表(<証拠略>)と符合している。

そして、右(イ)及び(ロ)の資料はいずれも前記公図等が野取される以前の作成にかかるものであるが、このうち地籍図と合地籍地引帳は多数の地元下検査人(そのなかには後に明治二六年の境界査定に立会した大場善内も含まれている。)がその作成に関与し、さらに、地籍図は右境界査定の立会人でありかつ隣接地の所有者でもある遊佐栄一もその作成に関与しているのであつて、図面記載の土地の形状の微細な点についてはともかく、これらの資料に記載された土地の位置関係と官、民有地の区別についてはかなりの正確性を有するものと認められる。次に、右地籍図及び合地籍地引帳に記載された下蟹沢八十一番ノ五ノ内官薪炭山の一部及び右官林図に記載されたウル川渕山一等官林の各位置関係は、その地形と周囲の土地との隣接関係に照らして本件係争地に該当する。さらに、御林牒(<証拠略>)の記述には『うるか渕山御林』の記載があり、また宮城県史中の『風土記御用書出、鬼首村』の御林に関する記述(<証拠略>)には、『宇留加川渕御林』(同書三一九頁下段)の記載があつて、その位置関係は、これらの記載だけからは明確にし難いけれども、明治の初期以前において右名称で呼ばれた御林が存在していたことを疑う余地がなく、また右『風土記御用書出』の川に関する記述(同書三一九頁下段以下三二〇頁上段)と青森営林局作成の図面(<証拠略>)とを対照すると、現在の田代川は旧名『うるか渕川』(うるか渕において荒黄川((現在の江合川))に合流すると記載されている。なお官林図((<証拠略>))には、ウル川と、明治二六年の境界査定の際作成された境界測量第一分図((<証拠略>))にはウル川渕川とそれぞれ記載されている。)とも呼称されていたことが認められることから推して、う流渕山御林又は宇留加川渕御林は右うるか渕川(現在の田代川)の流域に存在したものと推認することができる。

これらの事実を併せて考察すると、右御林は地籍図の八十一番ノ五ノ内の官薪炭山の一部として、前記官林図のウル川渕山一等官林の位置、すなわち本件係争地の位置に所在したものと認めるのが相当である。

〈a〉、〈b〉、〈c〉の公図等には、花山村の西側隣接地である本件係争地が恰も字荒湯囲いの民有地であるかのように記載されているけれども、これは次に述べるように実際と符合しないものであり、むしろ前記各資料に照らせば同所は右公図等が作成される以前から官有地であつて、実際にもそのように管理されてきたところであることが明らかである。

(ハ)〈a〉、〈b〉、〈c〉の公図等はいずれも明治一九年中の野取にもとづいて作成されたもので、その図面記載の土地全体の地形、地物の位置関係、村界の状況等が前述の地籍図や官林図よりも現況に近く、一層正確に図示されているものと認められ、またこれらの図面には野取に関与した野取総代人のほか、関係土地所轄の各村戸長の署名押印がなされていることが原審における各公図等の検証結果により認められるのであるが、(ニ)前記(一(一)(1))認定のように、本件係争地について隣接地所有者である遊佐友治が官有林を民有林と誤認して地券の交付を受けたことを理由に明治二五年に、土地台帳及び地押図の取消を上申する旨の「御請書」と題する書面(<証拠略>)を宮城大林区署の営林主事に提出し、かつ、官民立会のうえ施行された明治二六年の境界査定に際しても、本件係争地が官有地に属し、その西側の境界についても査定のとおり相違ないことを承認して署名押印し、その承継人である遊佐忠右衛門も大正一一年の境界査定出願に際し、明治二六年の境界査定の結果をくつがえす資料を提出することができなかつたこと、また、明治二六年の境界査定においては右遊佐友治のほか、明治一五年の地籍図の作成に当り下検査人として関与した遊佐栄一が隣接地所有者として、同様下検査人として関与した大場喜内が村総代人としてそれぞれ前記趣旨を承認のうえ署名押印していること、並びに前顕<証拠略>によれば地租改正の際には『地押ハ各村人民ニ於テ之ヲ為シ其際官吏及戸長総代人等ハ之ニ干与セス、其成ルニ及ヒ官吏之ヲ点検セリ』とされており、地押については主として住民の調査申告に依拠したことが認められること、したがつて、遊佐友治が地租改正の際本件係争地を字荒湯囲いの土地として地券の交付を受けたのも、同人の申告にもとづいてなされたものと推認されるところ、明治一九年の右野取においては、本件係争地が以前からうる川渕山御林等の名称のもとに官有地として管理されてきたのに拘らず、これとは別に右地券交付の事実を基礎として本件係争地を字荒湯囲いの八番、一〇番、一一番民有地として野取し、その成果にもとづき前記公図等が作成されたものと認められる。

したがつて、〈a〉、〈b〉、〈c〉の公図等の本件係争地に当る箇所に附せられた字名及び地番が正確なものとは言い難く、これによつては本件係争地が官有地であるとの前記認定を覆して、字荒湯囲いの右地番の民有地であると認定する資料とするのに足りない。

そして、前記うる川渕山御林及び下蟹沢八十一番五ノ内官薪炭山の一部とその西側に隣接する民有地との境界と、明治二六年の境界査定により測定された境界との間に多少の不一致がかりにあつたとしても、右境界査定により官、民有地の境界がその査定のとおり確定したものというべきである。

7  同五四頁一〇行目の「本件係争とは関連がない」から同頁末行までを次のとおり改める。

「国が川渡村から一筆の土地の一部を買収したのに、その全筆について土地台帳の登録及び所有権移転登記を経由したことから紛争に発展したものであつて、本件の紛争とは、紛争の対象及び事情を異にして関連性がなく、別件における国側敗訴の事実は本件係争地についてこれを官有地と認定することの障害となり、あるいは国が本件係争地が民有地であるのを官有地として取り込んだことを裏付ける資料とはならない。」

8  同五四頁末行の次に、次のとおり附加する。

「(4) 控訴人は明治二六年の境界査定の際に作成された境界測量第一分図(<証拠略>)が真正に作成されていれば、改めて地押図等の取消についての『御請書』(<証拠略>)を徴する必要がなく、これを徴したことは却つて右第一分図が虚偽であることを裏付けると主張しているけれども、右御請書は右第一分図が作成される前に作成され、営林官署に提出されているのであつて、御請書の作成提出の事実は、境界査定の手続や右第一分図の作成過程の正当性について疑いをさしはさむ事情とはならない。

(5) したがつて、国が境界査定の名のもとに、民有地である本件係争地を官有地として取り込んだことはないというべきである。」

9  同五五頁一三行目の「かつ、」の次に「以上説示した事実と前顕<証拠略>」を附加する。

10  同五六頁一行目の「第二係争地」から四行目の全部を次のとおり改める。「第二係争地は本件係争地(烏留川渕国有林、第一六〇林班、旧名ウル川渕山官林)の南に隣接する桂清水国有林の一部であり、現に東北大学管理の国有地であることが認められる。本件係争地とその南に続く第二係争地を含めた土地について、これが恰も字荒湯八番等の民有地であるかのように表示されている前記公図等の記載が正確なものではなく、採用できないことはすでに説明したとおりであり、そのほかには控訴人佐藤の請求の前提である、右第二係争地が字荒湯八番の民有地であることを認めるのに足りる証拠はない。結局、同控訴人の請求はその前提において理由がなく、その余の点の判断をまつまでもなく棄却を免れない。」

三  当審における補足主張に対する判断

1  控訴人らは、本件係争地を官有地として表示している明治一五年作成の地籍図、明治一一年作成の官林図及び官林表がその後の野取にもとづいて作成された地押一村図等の公図等より正確であるとはいえなく、本件係争地を官有地と認定する証拠とはならないと主張するのであるが、右地籍図等の作成の経緯と関係者の関与状況、右地籍図等に記載された土地と御林とを関連づける歴史的沿革についての前掲各資料を総合すれば、右地籍等は図面記載の土地全体の形状や土地と道路州等の地物との位置関係及び地物の形状の点において、後の野取にもとづく公図等の正確性には若干劣るものの、村界、字名、地番、官、民有地の区分については公図等よりは一層実際に符合するものと認められることは先に説明したとおりである(引用にかかる原判決の理由説示((当裁判所の附加、訂正を含む。))第一、二(二)(2)、(3))から、右地籍図等は本件係争地を官有地と認定するための資料とすることができる。

2  控訴人は遊佐友治が本件係争地の公図上の地番である字荒湯八番、一〇番、一一番土地について明治二三年四月三〇日自己の名義に所有の取得登記をへ、また明治三八年一一月二〇日これに抵当権を設定しその登記をへたことを根拠として、同人が御請書と題する上申書(<証拠略>)を提出したことはありえないとし、その成立を争うけれども、右御請書の文面は、同人が調査の結果地押図(現在の公図と同内容)に表示された字名や地番の記載の一部に誤りがあり、地押図上字荒湯八番、一〇番、一一番に該当する現地が同字同地番の民有地ではないことを承認し、地押図の記載の取消方を上申する旨の意思を表明しているのにすぎなく、同字同地番の土地が他にも全く存在しないことを認めている趣旨ではないことが、右御請書及び明治二六年の境界査定の際作成された境界測量第一分図(<証拠略>)の記載内容から推察されるのである。したがつて、同人が同字同地番の土地が地押図の表示に該当する現地以外の他の土地として存在しているものとして、これに控訴人ら主張の抵当権設定の処分をしたとしても、この処分が右御請書の作成提出と矛盾するものではないし、また同人が同土地について所有権取得登記をへたのは御請書の作成提出より前のことであるから、両者は何ら矛盾するものではない。

3  また、御林牒(<証拠略>)の記載だけでは官有地である御林の位置、範囲を確定することはできないが、これも一資料として、官林図、各官林表、地籍図、合地籍地引帳、その他の関係資料と総合して御林の位置、範囲を確定することができることは先に説明したとおりである(引用にかかる原判決の理由説示((当裁判所の附加、訂正を含む。))第一、二(二)(2)、(3))。

控訴人ら主張の河川法施行並びに準用河川表の田代川に関する記述や告示において、本件係争地が恰も字荒湯囲いの土地に当るかのような記載がなされていることが、<証拠略>及び当審の第一回検証の結果により認められるけれども、これらの表示や告示は公図の表示を基準としてなされたものと解されるので、本件係争地が字荒湯囲いの土地であることの根拠とはならない。

4  控訴人らは明治二六年の境界査定について、隣接地所有者に対する査定に関する通告書の送付手続がなされたことを示す文書が保存されていないとして、適式な境界査定処分がなされなかつたと主張している。

そこで検討するのに、明治二六年の境界査定は、先に認定(引用にかかる原判決の理由説示、((当裁判所の附加訂正を含む。))第二、二(一)(1))のとおり、明治二三年四月丙林第一三六号、官有林野調査心得、同年一〇月丙林第三七一号訓令官林境界踏査内規にもとづき、境界踏査により行われたものであり、明治三二年法律第八五号旧国有林野法第四条第一項、第五条の規定にもとづく境界査定のような手続をふまずになされたものであることが明らかである。

右法律にもとづく境界査定においては、控訴人ら主張のように、隣接地所有者に対する、立会を求める通告及び査定終了の通告手続が法定されていたから、控訴人らが援用する<証拠略>のような通告書が作成、保管される筈と思われるけれども、本件の右境界査定は旧国有林野法の施行前において、境界踏査内規にもとづき境界踏査により行われた査定であり、旧国有林野法の境界査定とは手続を異にするのである。

そして、右境界踏査の手続については、その準拠規定である境界踏査内規(前記丙林第三七一号訓令)によると「第一条、官林境界踏査ハ官林ノ境界不分明ナルカ隣接地主ト紛議アルカ若クハ紛議ヲ生スル恐レアル場所ニ限リ境界線ヲ判別劃定スルヲ以テ主旨トス、第四条踏査ハ地元市町村吏員並ニ隣接地主又ハ総代人代理人立会ノ上可成証拠書類ヲ参照シテ界線ヲ劃定スヘシ、第九条踏査ヲ終リタルトキハ雛形ニ準シ適宜ノ縮尺ヲ以テ図面ヲ調整シ之レニ請書ヲ記載セシムヘシ」と定められており、なお右地元市町村吏員の立会については、明治二三年一一月丙林第四八七号訓令(<証拠略>)によると「境界踏査内規第四条ニ必ス市町村吏員ノ立会ヲ要スルコトニ相成居候処右ハ自今境界査定上隣地主トノ間ニ紛議アル場合ニ限リ其立会ヲ請求スル義ト心得可シ」と定められているので、この定めに準拠して手続を履践すれば足りることとなる。

しかして、境界査定の制度が明治三二年法律第八五号旧国有林野法の制定施行により創設されたものではなく、同法とはその手続を若干異にするものの、同種、同目的の境界査定の制度が同法の制定施行の以前から存在し、本件における明治二六年の、境界踏査内規にもとづく踏査も、右境界査定の一つに該当することは、大審院大正六年一〇月一二日判決(民録二三輯一三九五頁)及び福岡高等裁判所昭和三四年一月三一日判決(下級裁判所民事裁判例集一〇巻一号二一五頁)の説示するところと同様である。

したがつて、右境界踏査内規にもとづく踏査が同内規所定の手続を履践して行われていれば、これにより適法な境界査定がなされたというべきである。

そこで、本件についてこれをみると、右境界踏査においては隣接地所有者である遊佐友治及び遊佐栄一並びに村総代人の立会のもとに踏査がなされ、踏査の結果判明した境界についてはこれらの関係者に争いがなく、踏査の成果を記録した境界踏査野帳及びその成果にもとづいて作成した境界測量第一分図(<証拠略>)にこれらの関係者がその成果のとおり相違ない旨を承認してそれぞれ署名押印しているのであるから、右手続は同内規の第一条、第四条及び第九条所定の手続を満たしているものというべきである(鬼首村吏員の立会は、境界について紛議のなかつた右境界踏査においては必要とされなかつたものである。)。

したがつて、右境界踏査による査定は適法になされたものというべきである。

5  原審及び当審(第一回)における各山林検証の結果によれば、本件係争地の東縁近くに存在する番号110番、122番、126番境界標(角石柱)はいずれも山印を刻した面を西方(本件係争地の方向)に向けて埋設されており、本件係争地の西縁に当る田代川の東側岸際に存在する番号51番、52番、53番、55番、57番の各境界標(角石柱)の山印を刻した面もいずれも西方(田代川の方向)に向けて埋設されていることが認められ、当審の第二回検証の結果によれば、本件係争地の南縁の外側近くにほぼこれに沿うかのような形状に一条の土塁が、また、本件係争地の東縁に沿い約一三メートルの間隔をおいて平行する二条の土塁が設けられているほか本件係争地の北方及び東方に存在する須金岳国有林及び一檜山、花山県有林の境界近くにもそれぞれ土塁が設けられていることが認められる。

控訴人らは、右境界標のうち番号110番、122番、126番境界標の山印を刻した面が本件係争地に向けて埋設されていることを根拠として同境界標が官、民有地の境界であり、本件係争地は民有地であると主張している。明治二三年一二月丙林第五〇九号訓令、官林境界測量内規(<証拠略>)第八条三号によれば、境界石標の外側に山印を刻することが定められているのであるが、山林技手内田源平の大正一一年一一月八日付復命書(<証拠略>)の一五項によれば、大正一一年遊佐友治の承継者遊佐忠右衛門からの境界査定出願に関し、その調査に当つた同技手が、山伏山国有林(本件係争地の東側隣接地、現在の一檜山花山県有林)界に石標柱四本を改設、一本を新設したほか、南側の陸軍省用地の境界に石標柱二本を新設し、西側荒湯地界にも石標柱九本を建設したとあり、この報告と本件係争地の西縁に設置してある番号51番、52番、53番、55番、57番の境界標がいずれも山印を刻した面を西方、田代川に向けて埋設してある事実をも併せて考察するときは、番号110番、122番、126番境界標は旧山伏山国有林(現在の一檜山花山県有林)の西側境界を示す標柱であると認められ、官、民有地の境界を示すものではないというべきである。

また当審の第二回検証の結果と弁論の全趣旨によれば、前記土塁のうち、本件係争地南側の一条と東側に平行する二条のうち本件係争地側の一条は、本件係争地が軍馬補充用の土地として使用されていた当時の馬の逸走防止の目的で構築されたものであり、そのほかは防火目的のもとに構築されたものと認められるのであるが、これらの土塁が存在することが本件係争地が官有地であつたことと矛盾し、あるいは民有地であつたことの証左とは云えないのであつて、本件係争地を従前より官有地であつたとする前記の認定及び判断を左右するものではない。

よつて当審における控訴人の主張はいずれも採用することができない。

四  結論

以上に説明したとおりであるから、被控訴人の請求は理由がありこれを認容すべきであるが、控訴人佐藤の請求は理由がなくこれを棄却すべきであつて、これと同旨の原判決は正当であり、控訴人らの控訴はいずれも理由がない。

そこで民事訴訟法三八四条一項により本件控訴をいずれも棄却し、控訴費用の負担につき同法九五条、八九条、九三条、九四条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 小木曽競 伊藤豊治 井野場秀臣)

【参考】第一審判決(仙台地裁古川支部 昭和四六年(ワ)第一二〇号、昭和四七年(ワ)第一三五号 昭和五一年七月一四日判決)

主文

一、昭和四六年(ワ)第一二〇号事件につき

別紙目録記載の第一係争地は原告の所有であることを確認する。

二、昭和四七年(ワ)第一三五号事件につき

原告の請求を棄却する。

三、訴訟費用中、参加によつて生じた分は参加人の負担とし、その余の費用は両事件を通じ、昭和四六年(ワ)第一二〇号事件被告阿部、昭和四七年(ワ)第一三五号事件原告佐藤の負担とする。

事実

(昭和四六年(ワ)第一二〇号事件について)

第一、双方の求める裁判

一、原告

主文と同旨の判決を求める。

二、被告

本案前の申立として、「原告の訴を却下する。」との判決。本案の申立として、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決。

第二、原告の主張等

一、別紙目録記載の第一係争地(以下本件係争地という。)は、以下に述べるように原告が所有し、青森営林局古川営林署長が管理している国有財産法第三条第二項第四号所定の企業用財産であり、宮城県玉造郡鳴子町字烏留川淵所在の烏留川淵国有林一六〇林班である。

(一) 本件係争地は、いわゆる地租改正にともなう官民有区分によつて官林となつたものである。

なお、本件係争地が当時所属していた旧磐井県においては、官民有区分は明治六年一一月に着手され、同一一年一〇月に完了している(府県地租改正紀要抄録昭和六年二月林野庁編)。官民有区分は土地の帰属関係を明らかにするものであるから、まず官林について調査確定する必要があり、その前提として旧来の官林の府県支配地官林の総反別の概要を調査把握し(明治二年七月一〇日民部省達「府県官林総反別ヲ録上セシム」)、更に右概要調査の結果を調査して、御林名、地坪、御林内立木の状況、四囲の状況等を記載した台帳を作成した(明治三年三月民部省達「御林帳様式ヲ領チ録上セシム」)。本件係争地についても、右明治三年の民部省達によつて調査され、その結果を記載した台帳が作成されている(栗原郡壱弐迫御林牒)。その後、官林調査をより詳密に行うために、明治九年三月五日に山林絵図面の製法、官林帳仕立方、官林の等級、山林測量の方法等を内容とする官林調査仮条例(内務省決議)が制定され、本件係争地についても右仮条例による調査が行われ、官林絵図面(<証拠略>)及び地籍台帳(<証拠略>)が作成された。右地籍台帳に記載されている本件係争地を含む桂清水国有林の四囲の境界は、現況と合致している。

(二) 明治一九年林区署官制が制定されたことにより、官林の経営管理組織の基礎が築かれたが、官民有区分により確定した官林(国有林)について、正確な官民地境界が確定しなければ官林の管理経営方針が確定しないため、政府は、明治二三年四月山林調査事業を起こし、官有林野境界調査心得(明治二三年四月丙林第一三六号)及び官林境界踏査内規(農商務省訓令明治二三年一〇月丙林第三七一号)の規程を設け、正規の官民地境界査定処分を行つた。本件係争地を含む桂清水国有林についても、明治二六年八月、宮城大林区署(現青森営林局)は営林主事松倉吉平をして査定にあたらしめ、同主事は、右規程に基づき、隣接土地所有者遊佐友治(鬼首村字荒湯一番、八番、一〇番ないし一四番、一八番所有)、遊佐栄一(鬼首村字荒湯二番ないし七番、九番、一六番ないし一七番所有)の現地立会をえて境界を踏査した。右境界の成果(境界点の位置、方位角、距離)は境界踏査野帳(<証拠略>)のとおりである。更に右の測量成果に基づいて製図したものが官林境界測量第一分図(<証拠略>)であつて、隣接土地所有者との境界、河川、沢の位置、付近の状況を明らかにしており、地籍台帳並びに現状とも一致している。右隣接土地所有者の遊佐友治、遊佐栄一は、右境界査定の結果について、右第一分図及び境界踏査野帳に、右境界踏査内規第九条に基づき異議がない旨の署名押印をしている。

右境界査定により、本件係争地を含む桂清水国有林と民有林との境界は、右査定線のとおり確定されたのである。

(三) 右境界査定の結果確定した両国有林(三六八町歩)は、宮城県を経て明治三一年七月二一日陸軍省に所管換となり、このうち本件係争地は大正一二年八月一八日に宮城県、大蔵省を経由して再び国有林に編入となり、本件係争地と軍馬用地として残つた元桂清水国有林(現文部省所管東北大学牧場)との境界について、大正一二年一〇月一〇日旧国有財産法(大正一〇年法律第四三号)の規定に基づく境界査定がなされ、その余の境界については明治二六年八月になされた境界踏査の成果に基づき境界の刈開き測量(既往の測量成果が現地に再現されたうえ、境界点、境界線を伐開されて境界を明示)のうえ、現在の位置範囲が再確定された。

(四) 明治初年の官民有区分を経て国有林となつた要存置林野については、明治三五年四月農商務省訓令第六号「国有林野施業案規程」に基づき、各事業区ごとに「森林を法正なる状態に導き、その利用を永遠に保続する目的をもつて」(同規程第二条)施業案を編成することが定められ、古川営林署管内の玉造郡下の国有林についても右施業案規程により施業案が編成された。すなわち、本件係争地を含む玉造事業区に施業案が編成されたのは、明治四〇年の調査による実行期間が明治四二年ないし大正三年までの六か年を第一期としたのが始まりである。その後大正三年八月二二日農商務省訓令第九号「国有林施業案編成規程」、昭和二三年四月六日農林省訓令第一〇六号「国有林野経営規程」、昭和三三年二月五日農林省訓令第二号「国有林野経営規程」、昭和四四年三月二九日農林省訓令第七号「国有林野経営規程」と、関係規程の変遷があつたが、これらの規程に基づいて玉造事業区(現行の宮城北部経営計画区)の各国有林について、施業案の実行期間到達前に、あるいは実行の途上において実地調査をなし、森林経営の基本業務である施業案が編成され、これらに基づいて各種の国有林野事業が実行されてきたものである。

本件係争地を含む玉造事業区については、明治四四年ないし大正三年、大正四年ないし同一三年、大正七年ないし同一三年、大正一四年ないし昭和九年、昭和一〇年ないし同一九年、昭和一七年ないし同一九年、昭和二〇年ないし同二一年、昭和二二年ないし同二八年、昭和二九年ないし同三二年と、各実行期間を区切りそれぞれの当該年度分の施業案を編成し、その結果作成された図面簿冊に基づいて各種の国有林野事業を実行しているが、何人からも異議の申出を受けることなく、国において本件係争地を含む玉造事業区内各国有林を管理経営しているものである。施業案の編成にあたり作成される図面簿冊類は、すべて実地につき現状調査をすることによつて始めて森林の現況を知り、将来に対する森林経営計画の基礎資料を得られるものであるところ、本件係争地を含む玉造事業区の施業案編成も、実地調査外業に従事した期間及びとりまとめ内業に従事した期間が明確にされているところからみても、実地調査のうえ森林経営計画が樹立されたことは極めて明白である。

本件係争地については、(不要地として陸軍省から返還になつた)大正一二年に、最初の施業案が編成された。この施業案は、大正三年八月二二日農商務省訓令第九号「国有林野施業案規程」に基づき、本件係争地を追加要存置として編成されたものである。右大正一二年の施業案編成により、本件係争地は烏留川淵国有林六〇林班となつた。右施業案の編成により確定した本件係争地の面積は一四九町一反五畝二〇歩で、その範囲内における森林の現況は、ナラ、ブナ等の広葉樹がところどころに団状に生育し、その蓄積は一五、〇〇〇石、全面積の約八割が草生地であり、今後の森林経営については、散生木を伐採し、草生地に対しては毎町歩アカマツ三、〇〇〇本、スギ三、六〇〇本を植栽し、人工造林地として経営管理すべきことを指針とした。

右施業方針に基づき、本件係争地は、昭和三年ないし昭和五年、同一一年、同三八年ないし同四〇年、同四二年の間に植林をしたスギが一一、三二五立方メートル、アカマツが二、〇二五立方メートル、カラマツが二四九立方メートルのあわせて一三、五九九立方メートルに達する人工造林地として管理されている外、ブナ等の広葉樹が三、五九八立方メートルに達する天然広葉樹林として現在に引き継がれ、管理経営がなされている。更に付言するならば、<証拠略>(昭和八年第三次検訂玉造事業区林相図のうち「関係部分騰写図面」)は、右大正一二年編成の施業案に引続き施業案が編成された結果作成された図面であるが、本件係争地が同年次すでに人工造林地として管理されていることを明白にしているとともに、本件係争地を含む玉造事業区の総面積が一九、五九二ヘクタールである旨を明らかにしている。

ところで、玉造事業区面積簿(<証拠略>)は、昭和二二年ないし同三一年の間を実行期間とする玉造事業区内の各国有林について施業案が編成されたときに確定した各国有林の施業面積を明らかにしたものであるが、その際確定した玉造事業区の面積は一九、五九五ヘクタール、そのうち本件係争地は一五七・〇八ヘクタールで、明治三九年九月農商務省令第二七号に基づき古川営林署管内国有林につき登録をした烏留川淵国有森林地籍台帳(<証拠略>)と完全に一致しており、実地調査がなされたことが明確である。

本件係争地について、林班番号が六〇林班から一六〇林班に変更されたのは、昭和三三年二月五日農林省訓令第二号国有林野経営規程の改正にともない、従来一営林署数事業区に分割施業案の編成がなされていたものを、一事業区を単位とし、事業区を経営計画区、施業案を経営計画と改められた結果による。

二、しかるに、被告は本件係争地が宮城県玉造郡鳴子町鬼首字荒湯八番山林三九、四五七平方メートル、同一〇番原野五五、七五五平方メートル、同一一番山林二四、七九三平方メートルの民有地であると称して、原告の所有権を争い、本件係争地に立入り、原告が設置した境界見出標などをもぎとり、被告名義の掲示板を立て、更には測量の実施を始め、同地内の各所に測量のための木杭を埋設している。

三、被告の本案前の抗弁に対する反論

およそ、原告の権利を否認する被告において、その権利が自己に帰属する旨主張するとこれを第三者の権利である旨主張するとを問わず、原告の権利を否認する結果、原告の権利者としての地位に危険、不安定などなんらかの不利益を及ぼすおそれが現に存在する場合には、その被告に対し権利の確認を求める利益があるというのが判例である(大審院民事聯合部大正一一年九月二三日判決民事判例集第一巻五二五頁、大審院第一民事部昭和二年三月三一日判決法律新聞第二六八八号一一頁、最高裁第二小法廷昭和三五年三月一一日判決最高裁民事判例集一四巻三号四一八頁参照)。そして右のように、被告は本件係争地につき原告の所有権を争い、本件土地に立入り、土地及び地上立木の売払いを前提とした測量を実施し始め、このために刈払いをするなどの暴挙をほしいままにしている。

したがつて、右の荒湯八番外二筆の土地の所有権が、昭和四五年一二月三一日付売買により被告から被告の父である阿部市信に移転したとしても、原告の権利者としての地位に不利益を受けるおそれが現に存在しているのであるから、原告は被告に対し、本件土地の所有権の確認を求める法律上の利益がある。

被告の右本案前の抗弁は理由がない。

四、被告の本案についての主張に対する認否と反論

被告の主張中、(一)項の荒湯八番外二筆が公簿上そのような所有権移転を経ていることは認めるが、その余はすべて争う。

(一) 被告が荒湯八番、一〇番、一一番の土地が本件係争地に該当すると主張する唯一の根拠は、玉造郡鬼首村字荒湯絵図(以下乙第六号証の公図という)にある。

しかし、一般に公図は現地に符合しないということは公知の事実であり、乙第六号証の公図にも「見取り」と記載されているとおり実測したものではなく、しかも地租改正並びに官林調査仮条例等に基づく土地官民有区分の結果を照合することなく作成されており、正しい位置範囲を示していないことは次の各項に照らしても明らかである。

そもそも烏留川淵国有林は地租改正にともなう土地官民有区分により官林として確定されたもので、その位置範囲については既に述べた官林絵図面(<証拠略>)並びに地籍台帳(<証拠略>)によつて明らかである。

右地籍台帳の字烏留川淵山、桂清水山を位置づける境界記事欄には、東は花山村字竪輪山外二ヶ銘官林及び秣場、南は玉造郡鳴子村民林、北は本村秣場及び荒雄岳外十ヶ銘官林並びに民林と明記されており、右官林絵図には沢、道路が着色されて一層明確にその位置範囲が図示されている。更に本件土地の東側隣接地とされている花山村字笠輪山外二ヶ銘官林について、その位置範囲を明らかにするため、官林調査仮条例に基づき作成された官林表(<証拠略>)についてみると、その西側には「本村秣場及鬼首村字烏留川淵外一ヶ銘官林並秣場本村字獄山官林」と明記されている。このことからしても本件土地が明治初年から官林として、その所有区分が明確にされ、原告主張の位置に確定のうえ管理されてきたことが明らかである。

玉造郡に対する地租改正事業は、府県地租改正紀要抄録(<証拠略>)によれば、明治六年一一月に着手され、明治一一年一〇月に終了している。宮城県における地籍編纂は、明治八年二月五日付をもつて各区戸長に達せられ実地検査することとし、官吏派出にともない、更にその手順を通達したのが同年八月一五日である。但し、栗原、登米、本吉、玉造の四郡は、旧水沢県から旧磐井県を経て宮城県に編入となつた経緯もあつて、遅れて明治一五年ごろ編纂されている。この際作成されたものが地籍図(<証拠略>)、合地籍地引帳(<証拠略>)である。この地籍図並びに合地籍地引帳には本件係争地及び桂清水官林が「八十一ノ五内字下蟹沢官新炭山」として整備されており、このことからも官林であることが明確であり、官林図(<証拠略>)並びに官林表(<証拠略>)に明示されている位置範囲と合致しており、地租改正当時から官林として地籍が整理されていたことが明らかである。

地租改正条例発布後、初めて地租台帳整備を目的として明治一七年一二月一六日大蔵省達第八九号「地租ニ関スル諸帳簿様式」が発せられ、これにともないいわゆる地押調査(明治一八年二月一八日訓令)が行われた。これらにより各府県庁に地租台帳等の台帳、反別地価帳、野取絵図等を、又、郡区役所には地券台帳、地租台帳等の台帳を、町村戸長役場には土地台帳、土地所有者名寄帳、反別地価帳、野取図等を設置するよう指示されたが、土地台帳を編成するにあたつては、単に在来の帳簿図面等を騰写することなく土地所有者に調査申告させて作成すべきものとされ、乙第六号証の公図も本来このようにして作成されたものである。

この地押調査当時は測量技術者が少なく、図面も測量技術者によつて作成されたものでないこと、人民が自己所有地を調査し、これを申告させる方法をとり、図面も「技術不憤熟なる人民の手にな」つたものであること、改租につぐ大事業といわれながら、当時の財政事情から投入された経費は非常に少ないものであつたこと(民費負担が圧倒的に多い)などから、当初全国的な調査を行つて土地を丈量し、改租の遺漏地を再検し、現況上の変動を明確にするという地押調査本来の目的を十分に達することができなかつた。一般に公図、特に山林原野の公図が現地に符合しないことが多く、それが公知の事実とされるのは以上のような経緯に基づくものであり、乙第六号証の公図が現地に符合しないのも、地籍図や合地籍地引帳等土地所有区分に関する前記資料を照合することもなく、単に土地所有者の申告のみにより作成されたことに基づくものと考えられる。

(二) 右の事実については、「大正一四年境界査定ニ関スル書類」(<証拠略>)を照合すれば更に明白となる。これによれば、山林技手内田源平は、同人が大正一二年本件土地に対し踏査線刈開き測量を実施するにあたり、玉造郡鬼首村役場において発見した地籍図(<証拠略>)は、明治二六年本件土地を境界踏査した営林主事松倉吉平がその結果を測量し作成した官林境界測量第一分図(<証拠略>)と対照すると寸分の相違もないと報告している。このことは官林調査仮条例により官林として確定され、地籍編纂の際作成された地籍図に示された本件官林の位置範囲が境界踏査の結果と一致したことを示し、両者とも正当であること、すなわち本件境界踏査が適法に行われたことを証するものに外ならない。

一方、乙第六号証の公図は、地租改正当時字下蟹沢囲に属する本件土地を含む官有地に字荒湯囲を拡張して図示している。すなわち、地籍図(<証拠略>)上本件土地に相当する字下蟹沢囲八十一ノ五内に字荒湯囲の地番を附して荒湯囲を拡張している。ところがその拡張部分の荒湯囲の地番の土地所有者の一人である遊佐友治は、明治一九年四月農商務省宮城山林事務所から山林監守人として任命されている者であり、本件土地を含む周辺の官有地についてはもちろん民有地についても最も事情に精通している立場にあつたものと認められ、更に荒湯囲の土地所有者である遊佐栄一は、明治二二年から鬼首村の助役を務め、その後村長を務めるなどした人物であり、地籍図の下検人の一人としてもその名をとめているから、本件土地が民有地でなく官有地であることなど本件土地及びその周辺の土地の所有区分について十分承知していたことは明白である。

このようなことから、明治二五、二六年の両年、本件土地を含む荒雄岳官林の境界踏査に際し、遊佐友治は、当時の宮城大林区署出張営林主事各務亮輔に「御請書」(<証拠略>)を提出し、温泉経営のため旧来から旧藩庁に代金を納入のうえ薪炭材を伐採してきた官林を自己所有地として取込んでしまつたことは誤りである旨、遊佐友治本人並びに鬼首村区長や同村役場員の遊佐栄一の連名で書面を提出しているのである。その請書の主旨は、字荒湯囲の民有地について地券の交付を受けその土地所有者であつた遊佐友治が、その土地に隣接する字下蟹沢囲の官有地をも自己所有の字荒湯囲の土地として拡張したことの不当であることを認めて陳謝しているのであつて、いわゆる地押調査が土地所有者からの申告により実地に測量したり旧帳簿に照合しなかつたのに乗じ、同人らが図面上字蟹沢八十番の五官薪炭山内に自己所有地の所在する字荒湯の地番を付して荒湯囲を拡張して申告したこと、すなわち右公図の正確でないことが証明されるのである。

(三) 右のように境界査定が実施され、右境界査定処分が適法に確定したものであるが、当時旧国有林野法(明治三二年法律第八五号)は施行されていなかつた。しかし、明治一九年勅令第一八号大小林区署官制第一条第五号、明治二四年勅令第一四四号大小林区署官制第一条第三号及び明治二六年勅令第一四七号大小林区署官制第一条第三号はそれぞれ大林区署の権限として「林地境界調査分合ニ関スル事項」、「官林ノ境界調査分合ニ関スル事項」を掲げ、また、訴願法(明治二三年法律第一〇五号)は訴願事件として、「土地ノ官民有区分ニ関スル事件」を掲げ、更に「行政庁ノ違法処分ニ関スル行政裁判ノ件」(明治二三年法律第一〇六号)は、「土地ノ官民有区分ノ査定ニ関スル件」につき行政庁の違法処分により権利を毀損された者は、行政裁判所に出訴することができる旨を規定していたから、官林境界踏査内規に基づきなされた右査定処分は行政処分としての効力を有すること明らかである(福岡高裁昭和三四年一月三一日判決下民集一〇巻一号二一五頁)。そして、境界査定処分の効力については、官林境界の査定は官有林地と隣接地との境界を調査するにとどまらず、その調査により両地の境界を確定し、官の所有に属する土地の区域を決定することを目的とする行政処分であるとされ(大審院大正六年一〇月一二日判決民録二三輯一三九五頁)、最高裁判所も右見解を踏襲している(昭和三八年六月二一日判決訟務月報九巻九号一〇八七頁)、そのほか、東京高裁昭和三四年四月一四日判決(訟務月報五巻五号六七二頁)は、境界査定処分が適法になされていれば、国有林と民有林との境界は右査定線のとおり確定する旨判示し、仙台地裁古川支部昭和三六年四月二四日判決(訟務月報七巻五号一〇三八頁。なお、仙台高裁昭和四〇年二月二二日判決、最高裁昭和四二年二月二一日判決をもつて、右第一審判決が維持され確定している。)は、大林区署長のなす境界査定処分は官民有地の境界を確定するのみでなく、その境界によつて区分される官有地の区域を決定することを目的とする行政処分であつて、それが確定した場合には、本来民有地たるべくして官有地に編入された区域についても民有地の所有権は消滅するものと判示し、熊本地裁昭和四〇年九月二八日判決(判例時報四三一号七頁)は、境界査定処分が確定すれば査定の効力として右査定線を越えてその所有を争うことができなくなる旨判示している。

五、よつて、本件係争地が原告の所有であることの確認を求める。

第三、被告の認否並びに主張

一、本案前の抗弁

被告は本件係争地を、被告の父訴外阿部市信所有の荒湯八番、一〇番、一一番山林であると主張するものであつて、被告は右訴外人の指示により、これを管理しているにすぎず、現在の所有者ではないから、被告に対して提起した本件訴は確認の利益を欠くので却下されるべきである。

二、原告の主張に対する認否

原告の主張一項中、本件係争地が原告所有であるとの点は否認し、その余の事実はすべて知らない。同二項は認める。その余の原告主張は争う。

三、被告の本案に関する主張並びに原告主張に対する反論

本件係争地並びに第二係争地(以下両者を本件係争地等という。)は民有地であつて、被告の父阿部市信所有の玉造郡鳴子町鬼首(旧鬼首村)字荒湯八番山林三九、四五七平方メートル、同一〇番原野五五、七五五平方メートル、同一一番山林二四、七九三平方メートルに含まれる土地である。なお、第二係争地は同八番の山林の一部である。

(一) 右荒湯八番、一〇番、一一番の山林原野はもともと遊佐家の土地で、地租改正後遊佐平右衛門に属し、その後遊佐友治、遊佐忠右衛門、遊佐孚、遊佐義行と承継され、更に被告、阿部市信の順に順次所有権が取得され、その旨の所有権移転登記が経由されてきた。

(二) 本件係争地等は、土地台帳、登記簿上民有地であることが明白である。

遊佐家の墓地は本件係争地等の近くにあり、これによると同家は藩政時代の初期よりその付近に居住していたものと思われる。そのため、明治初年地租改正に際しても、本件係争地等は民有地と確定された。明治二二年勅令第三九号土地台帳規則、同年四月一日同施行規則、土地台帳法等により、土地台帳は県、郡役所に備え付けられ、これに土地の所有者、所在、地番が登載されることになり、公図の備付けによつて土地の所在、地番が明らかにされ、法務局備付けの土地台帳、登記簿及び公図に引き継がれた。

これを本件についてみると、本件係争地等は、明治六年七月二八日太政官布告による地租改正条例とこれより先同年三月五日布告の地所名称区別(その後二度の改正あり官有地民有地に区別)に基づいて民有地に編入されたものである。その手続は、明治八年三月二四日地租改正事務局が設置され、同年五月二四日、同事務局達一号の「郡村之経界ヲ更正シ土地ノ広狭ヲ丈量シ其所有ヲ定メ其名称ヲ区別シ地価ヲ定メ地券ヲ渡ス等地租改正ニ関スル伺届ノ申牒ハ直チニ当局ヘ可差出此旨相達候」とあるのによつて、本件係争地等は丈量され、そのうえ所有者が定まり、民有地の区別ができ、地価が定められて、地券は当時の所有者遊佐平右衛門に交付されたものである。事務局は更に明治九年三月一三日地券台帳様式を定めたが後これが土地台帳に移行する。事務局は明治一二年三月三一日に地券上の所有権移転について指示し、又、地券下附及び書替事務は以来郡区長へ委託し、地券台帳は各郡区役所へ交付するよう指示した。右に基づいて宮城県は同年四月二四日付をもつて地券台帳の郡区に下渡し方を郡区長に通達し、同年六月一七日地券の下与、書替につき指示し、明治二二年三月二二日法律第一三号をもつて地券は廃止され、同日勅令により土地台帳規則が公布された。そして同年同月二六日大蔵省は、訓令第一一号をもつて土地台帳は従前の地券台帳を整理修補してこれに充て、府県庁備置の町村地図を郡役所に管理させた。

右のような手続によつて交付されるべき地券が、なんらの反証なしに誤つて交付されたというようなことはあり得ないことである。境界査定に関する承諾書(<証拠略>)が仮に真正なものとすれば、右は官の威力をもつて作成した強奪策謀の文書である。第一分図(<証拠略>)の境界査定図が真正に成立していれば改めて<証拠略>等の承諾書は必要がなく、これあることはかえつて右境界査定の虚偽であることを裏付けるものである。

(三) 右の点は公図によつても裏付けられる。すなわち、玉造郡鬼首村字荒湯絵図(<証拠略>)は、明治一九年作成の野取惣代人高橋忠助の代理大場万治郎、製図人高橋利惣エ門により見取りされた正確な絵図であり、土地の所在、地番は現況と一致し、右絵図によれば、東北は郡村界で里道が存し、西は沢川境、南は沢であり、同村地一村図(<証拠略>)は明治一九年の野取りにより明治二一年四月作成され、同村戸長地押惣代人、隣接村の戸長惣代人が署名押印し、正確を期したものであり、この図によると字桂清水第一番、第二番のみが官有地で、字荒湯には官林は存しない。右の各公図によるときは、本件係争地等は明らかに字荒湯の民有地である。

(四) 原告は、本件係争地等の所有権は明治二六年八月の境界査定処分により適法に確定したと主張する。仮に原告主張の手続により行政処分が行われたとしても、右処分は境界踏査の名の下に民有林を強奪し、もともと存しない烏留川淵国有林の名称を本件係争地にあてはめたもので、その処分には重大な瑕疵があるから無効である。

1 本件係争地等は、右のように民有地と確定し、土地台帳、公図に登載されているものである。このように確定した地番の境界を合意によつて変更し得るものではなく、また、地番を移動させるようなことはできない。ことに境界査定は、官民地の境界を定める処分であつて、一筆全部の土地(民有地)が消滅するごとき踏査はあり得ない。

もし仮に民有地を官有地となす場合には、旧登記法(明治一九年八月一一日法律第一号)第一八条により、同法第七条による登記を経なければならないのに、本件についてはこのような措置がとられていない。

2 踏査図(<証拠略>)は、係争地の地番を書き入れず、田代川の西に一番より一八番までの地番を一括記入しているが、これは公図(<証拠略>)を全く無視したもので、あたかも公図上の荒湯の地番を東より西に移動させたような観を呈している。正規の手続を経ないで右のような措置をとることは許されないはずで、たとえ隣接地番の所有者が踏査図に署名捺印したとしても、公図を変更することはできない。

3 本件係争地等は烏留川淵には関係がない。

烏留川淵は、田代沢が荒雄川に合流する下流の名称であつて、本件係争地等を流れる沢は田代沢である。<証拠略>によると本件係争地等の近くに田代なる地名が見えるが、これが田代沢の名称のもとであると思われる。そして田代とは苅敷を採るところ、緑肥採取の場所であつて純然たる山林ではなく、秣場と共通の民有地である。

<証拠略>に字烏留川淵山の記載があるが、鬼首村には字名に桂清水という地名は存在するけれども、烏留川淵又はこれに類似した字名は存在しない。そのためか字烏留川淵山の地名が墨で抹消され、字桂清水山のみがそのまま残されている。これは本図が作成された後誤りのあつたことが明らかになつたので、字烏留川淵山が抹消され、本件係争地等は民有であることが確定し、<証拠略>の公図となつたのではないか。

右<証拠略>に基づいて作成したと称する<証拠略>を見ると、記載されている東西南北の境界は明確でなく地勢も嶮岨とあるが、本件係争地等はその西北の一部を除いて嶮岨とはいいがたい。字桂清水の国有林こそ嶮岨である。

右をもつて見ると烏留川淵官有林は存在しないことに確定したのにかかわらず、国は強引に明治二六年八月境界踏査の名の下に民有林を強奪し、右名称の国有林を復活させようとしたもののようである。

4 国は本件係争地等の近くにおいて、旧川渡村と土地所有権についての民事上の争いと境界査定処分取消の行政裁判を争つたことがある。事の起こりは、旧川渡村が、明治年間にその所有にかかる一筆の山林の一部を国に売渡し分筆することなしに一筆全部の所有権移転登記をなしたところ、国は一筆全部を買受けたものとしてこれを否認し、更に強引にも境界踏査処分をなして買受けない地域についても取込もうとしたことに端を発し、行政裁判においては査定処分が取り消され、村の主張する境界が認められた。これに先だつて民事訴訟においては第一、第二審は川渡村敗訴、上告審で破毀差戻となり、差戻判決において川渡村勝訴、国より上告の結果更に破毀差戻、同差戻判決においても川渡村勝訴し、同判決は確定した。その間、国より行政処分の存在を理由とする妨訴抗弁に対する国敗訴の中間判決、同控訴審の棄却判決、更に前述の川渡村より国に対する境界査定処分取消の川渡村勝訴宣告があつた。

右係争と本件訴訟とを対比してみると、共に明治二〇年代の日清戦争の前後に事が発生し、軍備拡張のため、軍馬育成の土地獲得を理由に民有地を強引にとりこもうとしたためにひきおこされたものであることがうかがわれる。

もつとも川渡村と国との係争においては、一村図、地押図等も十分に検討され、公図、土地台帳等を一切無視した原告の本件主張とは異なる点が見受けられる。

5 官林境界踏査内規は、官林管理の適正を期させるために、営林局職員に対し事務処理基準を示したものにすぎず、これに基づく措置は内部事務処理であつて、いわゆる行政処分の性格を有するものではないから、国民の権利を規制する拘束力はない。同内規第一条には「官林境界踏査ハ官林ノ境界不分明ナルカ隣地主ト紛議アルカ若シクハ紛議ヲ生スル恐レアル場合ニ限リ界線ヲ判別画定スルコトヲ以テ主旨トス」とあり、同内規第二条には「成ルベク証拠書類ヲ参照シテ界線ヲ確定スヘシ」とある。しかるに当時本件係争地並びにその付近については、地租課税官署に地租改正にともなつて作成された公図類、台帳類があり、戸長役場には字切図、官林図等参照すべき証拠書類が存在していたのであつて、国が紛議を策謀するなら格別、民間側に紛議を起こす必要は全くなかつた。国があえて右内規の主旨を無視して必要のない踏査を行つたため、かえつて後日紛議を生ずることになつたものである。

第四証拠関係(略)

第一双方の求める裁判

一、原告

「別紙目録記載の第一及び第二係争地は原告の所有であることを確認する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決。

二、被告

主文同旨の判決。

第二原告の主張等

第一係争地については昭和四六年(ワ)第一二〇号事件被告の主張をここにすべて援用し、更に次を付加する。

原告は昭和四七年三月一日、所有者である阿部市信から荒湯八番、一〇番、一一番の外一八番を代金一億四、〇〇〇万円をもつて買い受けた。しかるに被告は、第一及び第二係争地を被告国の所有であると争うので本訴に及んだ。

第三被告の主張

昭和四六年(ワ)第一二〇号事件原告の主張等をここにすべて援用し、次を付加する。

第二係争地は、烏留川淵国有林一六〇林班に隣接する、もと桂清水国有林(三六八町)の一部であつて、右桂清水国有林は、明治三一年七月、右烏留川淵国有林と共に宮城県を経て陸軍省に所管換になり、現在文部省所管東北大学牧場として東北大学において管理しており、民有地ではない。

第四証拠関係<略>

理由

第一昭和四六年(ワ)第一二〇号事件について

(以下、第一係争地を本件係争地という。)

一、確認の訴の利益について

確認の訴における訴の利益は、原告の権利又は法律的地位に現存する不安定を除くために、一定の権利関係の存否を被告との間で判決によつて確認することが必要、かつ、適切である場合に認められる。所有権確認訴訟においては、原告の所有権が相手方によつて否認される場合はもちろん、相手方がその権利の帰属者は第三者にあると主張し、原告の所有権を妨げ、あるいは脅かす場合には、その相手方を被告として所有権の確認を求める法律上の利益がある。

これを本件についてみるに、原告は本件係争地の所有権者であると主張するところ、被告はこれを否認し、本件係争地が阿部市信所有の玉造郡鳴子町鬼首字荒湯八番、一〇番、一一番の民有地であると主張、抗弁しており、更に被告が本件係争地に立入り、原告の設置した境界見出し標などをもぎとり、被告名義の掲示板を立て、更には測量の実施を始め、各所に木杭を埋設していることは当事者間に争いがない。

右事実によれば、原告は被告を相手方として本件係争地につき所有権確認の訴を提起する利益を有するものと認められる。

被告の本案前の抗弁は採用しない。

二、本件係争地の所有権の帰属について

(一) <証拠略>の書類ないし図面はいずれも所轄の行政庁の保管する国有山林の境界査定、山林の管理等に関するものであつて、その記載自体並びに<証拠略>によりその成立を認めることができ、<証拠略>により同人が作成した境界検測図と認められ、<証拠略>は成立に争いがない。右の各書証と右各証人の証言並びに山林の検証結果によれば、以下の事実が認められる。

(1) 本件係争地は、明治初年当時旧磐井県(その後宮城県に編入)に属していたが、地租改正にともなう同県の官、民有地の区分は明治六年一一月に着手され、明治一一年一〇月に完了した。そして明治九年三月官林調査仮条例(内務省決議)に基づき、「陸前国玉造郡(旧栗原郡)鬼首村一等官林字桂清水山、ウル川渕山」の官林図(<証拠略>)、「桂清水山、ウル川淵山森林地籍」の国有森林地籍台帳(<証拠略>)が作成された。

宮城大林区署は、官林境界調査心得(明治二三年四月丙林第一三六号)及び官林境界踏査内規(明治二三年一〇月丙林第三七一号)の規程に基づき、実施調査による官林、境界図、境界簿の作成に着手し、右の桂清水、烏留川淵国有林(台帳面積三六八町歩)について隣接民有地との境界踏査をなし、本件係争地付近については、宮城大林区署営林主事松倉吉平が境界を踏査し、明治二六年八月、「境界踏査野帳」(<証拠略>)を作成し、その測量成果に基づき「陸前玉造郡鬼首村字荒雄岳、須金岳官林境界測量第一分図」(<証拠略>)を作成し、境界査定をなした。

右査定に関し、右第一分図に隣接民有地の所有者遊佐友治(鬼首村字荒湯八番、一〇番ないし一四番、一八番の所有者)、遊佐栄一(同村字荒湯二番外八筆の所有者)が現地に立会い、前記踏査内規第九条に基づき、右基定の境界に異議ない旨の署名、捺印をしている。なお、遊佐友治は、明治一九年四月農商務省宮城山林事務所から山林監守人に任命され(<証拠略>)、更に右査定に先だつ明治二五年六月一日、宮城大林区署営林主事宛に「御請書」を提出し、これによつてその所有にかかる荒湯八番、一〇番、一一番外数筆の土地につき明治八年地租改正の際、地券の交付を受けたが、その際温泉場として借用した官林(元御林)を私有地と誤認したのでこれを返地するが、土地台帳及び地押図は県収税部へ出願して取消す旨上申し(<証拠略>)ている。

その後右土地台帳及び地押図等が訂正されないままであつたところ、遊佐友治の承継人遊佐忠右衛門より、大正一一年一〇月二七日、地籍図、土地台帳、登記簿謄本等を根拠として仙台税務監督局宛に、さきの査定にかかる官有地は荒湯八番、一〇番、一一番の民有地である旨の境界査定願が出された。そこで命を受けた川渡小林区署の山林技手が図面、資料を収集して、地租改正時からの官、民有の状況等について検討を加え、予備調査、刈開き測量をなした結果、明治二六年の境界査定により右査定地は官有地と確定したものであるとの結論を出し、所轄官署から出願人にその旨の通知がなされた(<証拠略>)。右の通知について忠右衛門から格別の異議がなされた形跡はない。

右境界査定による官有地の範囲は、青森営林局の測量係長林下守夫が昭和四八年五月に実施した現地検測(<証拠略>)並びに山林の検証結果によると、本件係争地に該当する。(なお、右検測における測量成果は別紙目録添付の第一係争地にかかるそれであり、その方位、距離、角度等において前記明治二六年の境界査定の測量成果(<証拠略>)と若干のくい違いがみられる。しかし、その差異は右検証結果と弁論の全趣旨によると、昔と現代の測量の技術、方法、精度のちがいによるものと解せられ、査定当時の地形、境界標、測点等が変動したわけのものではないと解される。)

(2) 本件係争地を含む烏留川淵、桂清水国有林は明治三一年宮城県を経て陸軍省の所管となつたが、大正一二年八月再び宮城県を経て国有林となり、本件係争地と軍馬用地として残された桂清水国有林との境界について同年一二月旧国有財産法(大正一〇年法律第四三号)に基づく境界査定がなされ、境界の刈開き測量がなされて右査定地の位置範囲が再確認された。そして、国有林施業案の編成にともない、本件係争地は、大正一二年烏留川淵国有林六〇林班と命名され、昭和三三年二月五日農林省訓令第二号国有林野経営規程の改正にともない、同国有林一六〇林班と命名の変更がなされた。

なお、本件係争地は、昭和一三年以来、スギ、アカマツ、カラマツの人工造林地並びにブナ等の天然広葉樹林として管理され、現に青森営林局古川営林署長がこれを国有財産法第三条第二項第四号所定の企業用財産として管理している。

(二) 本件係争地は、さきの境界査定処分により官有地に確定したのであり、境界査定処分が適法になされていれば、国有林と民有林との境界は右査定のとおり確定するものと解されるところ、被告は、本件係争地が前記の民有地に該当し、烏留川淵国有林は存しないことに確定したのに、国は強引に明治二六年八月境界査定の名の下に民有林を強奪したもので、その処分は無効である旨主張するので、この点について検討する。

(1) <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

玉造郡鳴子町鬼首(旧鬼首村)字荒湯八番、一〇番、一一番の三筆の山林はもともと遊佐家伝来の土地であつて、地租改正にともなう官民有地の区分がなされた明治初年には遊佐平右衛門の所有地とされて旧土地台帳にも登載され、明治二三年四月三〇日の譲與を原因として遊佐友治に、明治三九年七月二五日家督相続により遊佐忠右衛門に、昭和一〇年六月二八日家督相続により遊佐孚に、昭和二七年四月二三日相続により遊佐義行にそれぞれ所有権が移転され、その旨の所有権移転登記が経由されていたところ、遊佐義行は昭和四四年七月一七日の売買をもつて被告に所有権を移転し(同年同月一八日付所有権移転登記)、更に被告よりその父阿部市信に対し、昭和四五年一二月三一日の売買を原因として、昭和四六年七月一四日付をもつて所有権移転登記がなされた。

次に、以下の仙台法務局鳴子出張所及び鳴子町役場保管にかかる絵図等(以下公図等ともいう)がある。〈a〉「宮城県陸前国玉造郡鬼首村字荒湯絵図」は、明治一九年野取のものであり、その距離、縮尺などについては正確なものではないが、これによると、荒湯八番、一〇番、一一番外の民有地の東側が花山村と、南側が字桂清水と境を接していることがうかがわれ、〈b〉「鬼首村地押一村図」は、明治一九年野取に基づき明治二一年四月作製の縮尺六千分の一とあるもので、民有地の地番は示されず、各種の境界、地形、地租の概略が示され、これによるときは、右の荒湯の民有地の東側の里道ぞいに花山村との境界があり、右民有地の南側は字桂清水の官有林に隣接していることがうかがわれ、〈c〉「鬼首村字桂清水図」は、明治一九年五月野取のもので、これによるときは、荒湯の南側に第二番官有地があり、荒湯の東側は花山村と境を接することがうかがわれる。

(2) 右の事実によれば、花山村に隣接する本件係争地付近にはその具体的な範囲はさておき民有地が存していたのではないかとの見方が可能であり、被告はこれをその主張の支えとしている。

しかしながら、(イ)明治一五年鬼首村地籍図(<証拠略>)によると、花山村との境界ぞいの里道の西側山林は「八十一ノ五ノ内下蟹沢官薪炭山」と記載され、そして同年鬼首村の合地籍地引帳(<証拠略>)によると、下蟹沢八十一ノ五は官有の薪炭山三七八町八反歩と記載されており、(ロ)明治九年三月官林調査仮条例に基づく官林図(<証拠略>)及び国有森林台帳(<証拠略>)によれば、桂清水山、烏留川淵一筆官林反別三六八町歩の境界は、東が花山村字堅輪山外二ヶ銘官林及秣場、西が本村秣場及び荒雄岳外十ヶ銘官林並民林、南が鳴子村民林、北が本村民林及秣場と記載されており、以上の(イ)、(ロ)資料はいずれも公図等が見取りされる以前に作成されたものであつて、これらによるときは公図等とは異なり、花山村の西側隣接地は民有地でなく、むしろ官有地であることがうかがわれること、(ハ)そして〈a〉〈b〉〈c〉の公図等は官民立会いのもとに作成されたものでなく、少なくともその作成根拠が明らかでないこと、(ニ)前記(一、(一)(1))認定のように、隣接民有地の所有者である遊佐友治が、官有林であるものを民有林であると誤認したので土地台帳、地押図を取り消す旨上申し、かつ官民立会いの下の明治二六年の境界査定に際して査定の境界を異議なく承諾し、その承継人忠右衛門もこの結果をくつがえすことができなかつたことなどの事実をあわせ考えると、〈a〉〈b〉〈c〉の公図等は内容の上からも正確なものではなく、これによつて本件係争地が民有地であることを裏付けることはできないものであるし、また、本件係争地が地租改正当時から明らかに民有地であつたものとは認められず、むしろ以上の事実からみると、花山村の隣接地は官有地であり、境界査定によつてその官有の範囲が確定したものと認めるのが相当である。

(3) 以上によると、右の本件係争地に関する境界査定処分には、その内容にも手続にも違法は認められない。なお、証人遊佐義行の証言は、前記の確たる根拠のない公図等を前提として本件係争地が遊佐家伝来の所有地であつたと述べているにすぎず、これによつては被告主張を裏付けるには足りないし、<証拠略>によれば、旧川渡村と国との間において、本件係争地近くの土地の所有権をめぐつて、被告主張のとおり民事訴訟や行政訴訟が提起され、かつ国側が敗訴したことが認められるが、右係争は本件係争とは関連がないのみならず、本件係争地に関する境界査定処分につき他に何らかの違法、不当な事情が認められない本件においては、別件における国側敗訴の事実のみをもつて、右境界査定処分の無効であることの理由となすことはできない。

(三) 以上のとおりで、本件係争地は明治二六年八月の境界査定によつて原告が所有することに確定し、青森営林局古川営林署長がこれを管理している企業用財産の宮城県玉造群鳴子町字烏留川淵国有林一六〇林班であると認められる。

第二昭和四七年(ワ)第一三五号事件について

原告が訴外阿部市信から荒湯八番、一〇番、一一番外一筆の土地をその主張の日に、主張の代金をもつて買受けたことについては、被告がこれを明らかに争わないから自白したものとみなす。

原告は別紙目録記載の土地のうち第一係争地は荒湯八番、一〇番、一一番であり、第二係争地は第一係争地と一体をなす荒湯八番の一部であると主張するけれども、第一係争地が被告国所有の前記国有林であつて右の民有地であると認められないことは、昭和四六年(ワ)第一二〇号事件において説示したとおりであり、かつ、<証拠略>によると、第二係争地もまた桂清水国有林の一部であり、現に文部省所管の東北大学管理地であることが認められる。そうすると、第二係争地が荒湯八番の民有地の一部であるとの原告主張事実は認められないというべきである。

第三結び

よつて、昭和四六年(ワ)第一二〇号事件については、原告の請求は理由があるからこれを認容するが、昭和四七年(ワ)第一三五号事件については、原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用につき民事訴訟法八九条、九三条、九四条を適用して、主文のとおり判決する。

(仙台地方裁判所古川支部 小島建彦)

別紙 目録<略>

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